地獄の映画録

「ここは地獄なのかよクソ!」が口癖の映画レビューです

今週のニュース②【2015/7/25~31】

 酒蔵における酒造りの最高責任者、或いは職人集団のことを杜氏(とうじ)と呼ぶ。後者においてその形態はどこかの酒蔵の専属というよりは、傭兵集団として出向き、指導に努め、蔵元にその年の酒を残して去るという請負業務に近い。今となってはその多くが消滅の危機にあるものの、伝統的な酒造りにおいてその知識と経験は欠かせないものである。映画「一献の系譜」ではそんな杜氏集団のひとつ、能登杜氏に密着している。

伝説をつくった男たち「能登杜氏四天王」を識ると日本酒がもっと旨くなる!! - NAVER まとめ

 大手酒造メーカーでは機械化や社員教育によって杜氏の居場所は少なくなり、杜氏を有しない「獺祭*1」など、伝統から踏み出した新しい酒造り体制も展開されつつある。そんな中、杜氏の魅力を如何に伝え、その技を後世に残すのか。今のところ東京と石川以外での公開は決まっていないが、一日本酒好きとして是非とも知られざる杜氏の世界を堪能してみたい。

 

 同じく日本酒のドキュメンタリーとして「KAMPAI! FOR THE LOVE OF SAKE」は海外の映画祭に招待されている。京都の外国人杜氏など、日本酒を世界に広める3人の男たちにスポットを当てており、伝統の奥深さに迫った「一献の系譜」と合わせて見ることで、より多角的に日本酒というものを捉えることができそうだ。

 

ナウシカのような美少女の恋模様と衝撃のラスト「草原の実験」予告公開 : 映画ニュース - 映画.com

 先週取り上げた「シーズ・ファニー・ザット・ウェイ」と同じく、こちらも昨年の東京国際映画祭で話題を呼んだ作品。台詞なし、映像美、衝撃の結末という事前情報から、とにかくスクリーンから目が離せなさそう。そして、あまり余計なことは知らないで見た方が良さそう。なので予告編もパッと1回だけ見て、続報も無視して、twitterなどで感想を目に入れないように公開を待ちたいと思う。

 というかナウシカのような美少女ってなんだ。「草原に生きる主人公の姿」だけでは短絡的すぎるし、作品内容的に文明との対峙があるということだろうか。

 

マット・デイモンが火星に置き去りに、「オデッセイ」オンライン限定予告公開 - 映画ナタリー

 リドリー・スコット監督の最新作はホメロスの「オデュッセイア」を下敷きにしたSF叙事詩。火星で遭難した宇宙飛行士が知恵を巡らして生き延び、SOSのメッセージを受けた仲間たちが一蓮托生の思いで救助に向かう。

 またマット・デイモンが惑星に置き去りにされてしまうのか……。

 

「私たちのハァハァ」予告編公開、4人の女子高生が自転車で駆け抜けたひと夏 - 映画ナタリー

男子高校生の日常」の映画化を担い、「自分の事ばかりで情けなくなるよ」でクリープハイプの音楽を映像化し、「ワンダフルワールドエンド」で女の子同士の世界を描いた松井大悟監督の最新作は、クリープハイプのライブのために東京を目指す女子高生の日常という集大成のようなあらすじ。

 正確には日常ではなく、冒険か。「ワンダフルワールドエンド」に「イージーライダー」を感じた身としては、松井監督とロードムービーは相性がいい気がする。キャストもVine女子高生やシンガーソングライターなどバラエティーに富み、どのように魅力を引き出すのか見どころ。

 しかし、福岡から東京までの約1000キロをママチャリで、というのは相当きつい。かくいう私もママチャリで1日100キロ程走ったことがあるが、足はもちろん、ケツがヤバい。立ちこぎしかできなくなる。それも夏、避けて通れない坂道などを考えると、女子高生の体力では……と思ったけど予告編では車に乗ってたりもするし、運転手の池松壮亮も絡んで色々とドラマがありそう。

 

 

映画館で銃乱射、3人が死亡 「映画の一部だと思った」と目撃者(アメリカ)

米映画館でまたも銃撃殺傷事件発生 暗視カメラと金属探知機は必要か? : 映画ニュース - 映画.com

 アメリカの映画館で起こった銃乱射事件。正直映画館であろうとなかろうと、対策のしようがない気がするが。

 2012年にコロラド州の映画館で70人の死傷者を出した乱射事件は、「ダークナイトライジング」のプレミア上映に合わせて、前作「ダークナイト」の敵役ジョーカーを名乗る犯人による犯行だった。

 今回も何か上映された作品に因縁があるのかと思いきや「トレインレック」というコメディ映画で、犯人も現場で自殺したため動機は不明。犯人は58歳ということで、映画館デートに誘ったけど断られたから~という理由でも無さそうだが……

 日本ではあまり起こり得ない事件かもしれないが、映画館というのは暗闇でスクリーンに集中している分、周囲に気が向かず、少しの事では声も出しにくく、無防備な状態ではある。何らかの事件に巻き込まれる可能性を考えて、映画館側がどんなに注意してもしすぎることはないだろう。

「神々のたそがれ」

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遺作にして大作、そして怪作

 アレクセイ・ゲルマン(1938-2013)はロシアの映画監督。生涯に残した作品は「道中の点検」(1971)、「戦争のない20日間」(1976)、「わが友イワン・ラプシン」(1984)、「フルスタリョフ、車を」(1998)、そして遺作となった「神々のたそがれ」(2014)と決して多くはない。特にソ連時代の作品については当局の検閲によって上映禁止に処されるなど、ペレストロイカの時代まで日の目を見ることは無かった。それでもこの監督が二十世紀最後の怪物的な存在感を放つのは、祖国での自由を得た後に時間をかけて撮られた最後の2作品、その濃密な映像体験からほとばしるエネルギーに照射された人間が、得体の知れない何物かを感じずにはいられなかったからだろう。

 ソ連時代の検閲、「フルスタリョフ、車を!」に関してはすでに過去記事で取り上げているので、そちらをご参照ください。

 また、ペレストロイカ以降のロシア映画界や監督の置かれていた状況に関しては、こちらのインタビュー記事が参考になりました。

アレクセイ・ゲルマンインタヴュー『もう、うんざりだ』(インタビュー翻訳記事) | CHEMODAN

 1986年ペレストロイカによって名誉を回復され、その象徴として再評価されたアレクセイ・ゲルマン監督。しかし、ソ連の崩壊後、落ち着いて辺りを見渡してみると、ロシアの映画界もまた体制の瓦解によって腐りかけていた。

「今の世代は、わたしにとっては映画界からこぼれ落ちてしまったも同然です。自分自身のことばで語る人は大勢います。が、基本的にそれは映画的な方法で、ではないのです。」

 

「わたしは誠実に働いてきました。ですが、今となっては苦役に向かうかのように仕事に向かいます。いまの映画界というものに、わたしはうんざりしてしまったのです。」

 このような心境の下で撮られた「フルスタリョフ、車を!」は、スターリン時代の終焉に立たされた主人公の数奇な運命と、ペレストロイカ以降の映画界に立たされた監督自身の境遇とを重ね合わせるものではなかっただろうか。

 そして、「神々のたそがれ」において、主人公が何度となく口にする「うんざりだ」「気が滅入る」「神様はつらい(原題)」は、インタビューにおける監督の言葉と一致する。つまり映画という世界の創造主(神様)である監督自身の嘆きに他ならないのだ。

 正直、図らずも遺作となってしまったことから(年齢的に本人も最後の作品のつもりで取り組んだかもしれないが)、必要以上に祀り上げられている感は否めないが、この作品から浴びせられるエネルギーを打ち消すことが如何に困難であるかは、実際に3時間の濃密な映像体験を経ればわかってもらえることだと思う。

 俺はここまでクソまみれな映画を見たことがない。

 

あらすじ

 地球より800年ほど文明が遅れている惑星に、科学者や歴史家ら30人の調査団が派遣された。しかし、ルネッサンス初期を思わせた惑星では、地球人の期待とは裏腹に、知識人狩りが行われ、繰り返される虐殺によって一向に活路は見出されずにいた。そんな中、地球人の一人であるドン・ルマータは王国の貴族として、また飾り立てられた神の子として、状況を静観し、自らの手を下すことは禁じられていたのだが……。

 

こんな星はもう滅ぼすしかない!

 わかりやすいSF的シチュエーションから漠然とした話展開はタルコフスキーの「ストーカー」、また略奪、虐殺の光景は15世紀のロシアを描いた「アンドレイ・ルブリョフ」が想起される。それもそのはず、プロローグでは800年前をルネッサンス初期とは言っているものの、ロシア史における800年前とはちょうどタタールのくびきの時代である。民族の分断、文化や伝統の破壊。この惑星で起こっていることは、800年前の地球で実際に起こっていたことと何ら変わりはない。

 そして、惨劇は繰り返される。一つの集団が淘汰されても、また一つの集団がそれに成り代わるように。白が灰に、灰が黒に。人類のたどってきたシンプルな連鎖。「奴隷のいない地を誰が喜ぶのか」地球でさえつい200年前まで奴隷貿易が行われていたのだ。この惑星で地球人は神とされてはいるものの、その知恵をもって変革を起こそうというのは余りにも視野が短期的であり、命に限りある者の悲哀と辛労は色濃い。「神様はつらい」そりゃ人間にはつらかろう。

  大筋はわかりやすい話なのだが、見ている間は本当に苦労する。脈絡もない発言や行動、いつの間にか主観の切り替わるカメラワーク、記録映像(或いはホームパーティー)のような長回し。手法としては「フルスタリョフ、車を!」を発展させた形になっており、舞台が異世界になっている分、その混沌はさらに極まっている。理解の不可能性から生み出される異化効果によって、SFとしてもサイエンスというより、スペキュレイティブな様相を呈している。

 そして、映画に匂いが無くてよかったと思えるほど、とにかく汚い。地面はつねに泥まじりの雪やぬかるみ、屋内には藁が跳ね、羽が飛び、鳥や獣、腸詰が干され、小道具はそこらへんで拾ってきたようなガラクタばかり。演じている役者は気が触れたのではないかと思うほど、地獄のような不衛生さ。この世界設計だけでご飯1杯も食べられなくなる。(『ご飯3杯はいける』の亜種)

 ビジュアル的な雰囲気としては漫画版「風の谷のナウシカ」に近いものがあるかもしれない。が、虫はそんなに出てこないので、虫嫌いな人は安心してください。出てくるのは泥水とか臓物とかです。

 主人公の秘めたる力といった中二病的なファンタジー要素もあり、この日常からかけ離れた世界を味わうだけでも見る価値はある。が、本当に日常からかけ離れているのだろうか? 別世界のようでいて、地球と同じ歴史を繰り返し、思い通りに事が運ばず、行き詰まって、息詰まって、もうお前らいい加減にしろよ、全部ぶっ壊してやる!となる主人公に、現代でも同じような生きづらさを感じ、共感しないだろうか。

 スクラップ&スクラップ!すべてをぶち壊すことだ!

 スクリーンを通してこの世界に身を置いた時、なぜか外山恒一政見放送が思い出されたのは、私だけだろうか。私だけだろうが。

 

 

 

今週のニュース①【2015/7/18~24】

 今までのように映画ニュースを1記事で1つ取り上げるのは、話を広げるのに限界がある上、記事の書き方としてもどうかなあと思ったので、これから個人的に気になったニュースを毎週末にピックアップしていく形にしようと思います。

 拾ってくるサイトは映画.comやナタリー辺りが情報の早さと量を兼ね揃えているので、主にその辺りから。人の褌で相撲をとる形になりますが、ちゃんと自分の文章も書くので大目に見てください。

 ニュースの順番は時系列とは限らず、恣意的です。

 

 昨年の東京国際映画祭でプレミア上映され、大好評だったというピーター・ボグダノヴィッチの新作「シーズ・ファニー・ザット・ウェイ」の待ちに待った日本公開日が決定した模様。

 御年75歳の監督。代表作「ペーパー・ムーン」(1973)は40年前の作品で、当時10歳にしてアカデミー助演女優賞に輝いたテイタム・オニールも50歳。本作も13年ぶりの新作となる。

 ホドロフスキー(86歳)やゴダール(84歳)、大林宣彦(77歳)、ジョージ・ミラー(70歳)らが率先して意欲的な(ぶっ飛んだ)映画を作っている昨今、ボグダノヴィッチ監督もむしろ脂が乗りはじめる年頃かもしれない。

 

ピクサーの長編16作目は恐竜が主人公「アーロと少年」2016年3月公開決定 : 映画ニュース - 映画.com

 現在「インサイド・ヘッド」が公開中のピクサー映画だが、続いて「アーロと少年」の日本公開がすでに決定している。隕石の衝突によって絶滅したと考えられている恐竜(ユカタン半島の巨大クレーターがその名残とされる)だが、もしも隕石が逸れて絶滅を免れていたら……というifの地球を舞台に少年と恐竜の冒険を描く作品。

 正直、タイトルからしても「ヒックとドラゴン」の2番煎じではないかと思ってしまうが、ピクサーが単なる後手に回るとも思えないので、恐竜好きな子どもだけではなく大人も胸躍るような物語を期待したい。

 昨年は「GODZILLA」も復活したし、今年は「ジュラシック・ワールド」(8・5日本公開)が世界歴代3位の興行収入を記録しているし、やっぱりみんな好きなんですよね恐竜。あっ、でも恐竜と怪獣は違うか。

 

キューブリックがアポロ月面着陸を撮影!? 都市伝説の裏側を描いたコメディ映画公開! : 映画ニュース - 映画.com

 新作といえばこんなものも。アポロ月面着陸陰謀説の中でもとりわけほら話に近いキューブリック撮影説を本当にアメリカ政府が依頼したものとして描くコメディ映画。

 よく聞くジョークとしては、完璧主義なキューブリックは実際に月面で撮影することにこだわって、結局月に行く羽目になったというオチがあるんですけど。どういうストーリーに仕立てるんでしょうか。気になるところです。

 

フェデリコ・フェリーニ監督「甘い生活」がリメイク : 映画ニュース - 映画.com

 リメイクのニュースで目についたのはフェリーニの「甘い生活」。しかし、今リメイクしてどうするのかという気がする。舞台を現代にするにしても、翻案してオリジナルで作ればいいのに。

 

ブラッド・バード監督デビュー作「アイアン・ジャイアント」がアメリカで再び劇場公開 : 映画ニュース - 映画.com

 アメリカでは「アイアン・ジャイアント」がリバイバル上映されるらしい。追加シーンもあるということで、Blu-rayに収録して発売してほしいな。笑って、泣けて、海外アニメで一番好きな作品です。

 

 映画祭関連ではこんな珍しいニュースが。日本では今年何かと問題になったドローン。そこから撮影した映像のみが対象の映画祭。

 ネイチャー・ドキュメント系の番組では欠かせない存在となっているドローンだが、最近ピストルを撃つドローンの映像が公開されるなど、良くも悪くもその可能性は未知数。映像作品という形で方向性を模索するのは、その未来を見定める意味でも良い効果をもたらすのではないかと思う。

 

 そして最後に、これからの季節にぴったりのニュースを一つ。

 

米独立系映画館、「ジョーズ」の水上上映会を企画 日本では12年に茅ヶ崎で実績 : 映画ニュース - 映画.com

※参考画像 

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 絶対に嫌だ。

 

「コングレス未来学会議」

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現実と仮想、どちらに生きるか

 「惑星ソラリス」で知られるスタニスワフ・レムの原作「泰平ヨンの未来学会議」を「戦場でワルツを」のアリ・フォルマン監督が映画化。未来のハリウッドを舞台に実写とアニメーションを駆使して描かれるドラッグムービー。

 実在の女優ロビン・ライトがミラマウント(ミラマックス+パラマウント)という映画会社とデジタル俳優の契約を結ぶ前半の実写パートは原作にないオリジナル設定。着想はむしろコニー・ウィリスの「リメイク (ハヤカワ文庫SF)」辺りにあるかもしれない。

  彼女が契約を結んでから20年後、映画はアニメ化した現実世界としての空間に踏み込んでいく。20年後の世界の共通概念や彼女自身の心境などの説明はほとんど省かれているため、始めこそ(原作を読んでいてすら)ポカーン( ゜Д゜)となるかもしれないが、現実と幻覚の区別がつかなくなってくる辺りから、時代背景とか設定とか、そんなことどうでもよくなってくる。

 原作がぶっ飛んだ薬物主義社会を描くブラックユーモアに徹していたのと比べると、こちらはハリウッドへの皮肉や家族愛など、感情の問題はシンプルで毒気の無いものになっており、そういう意味ではとっつきやすくはなっているのかもしれない。

 LSD体験のような視覚表現はアニメならでは。そして、この世界に生きるとはどういうことなのか、謎が明かされるにつれて、物語後半、実写に戻ることの意味も際立ってくる。現実に生きるか、仮想世界で暮らすか。そのテーマは同じくレム原作の「惑星ソラリス」にも通じるものがある。ということはつまり「インセプション」やアニメとしては「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」とも重なってくるわけで。それが個人だけではなく、社会全体の問題になっているという点では「マトリックス」的でもある。

 ただ、命をとるか、愛をとるかというような、わかりやすい二者択一の物語に仕上がっているかというと、決してそこまでは易しくない。「世界がどんなに変わっても、揺るがない愛」というキャッチコピーは日本の配給会社がつけたのだと思うが、何でもかんでも「世界」だとか「愛」だとか言って客を引こうとするのは、セカチュー以来の悪しき風習だと思うし、ハリウッドを皮肉った映画が日本では日本なりの売り出し方をされていること自体を皮肉に感じてしまった。

 

泰平ヨンの未来学会議

  スタニスワフ・レムの原作「泰平ヨンの未来学会議」は、映画で言うとアニメーションパートのあたりから始まる。未来学者(というのもよくわからない存在なのだが)である主人公が会議のために訪れたホテルで薬物まじりの水道水を飲み、”慈愛”の精神に苛まれるところから始まり、軍隊が出動して”誘愛弾”が撃ち込まれ、逃げた先の地下水道では何重にも幻覚が折り重なり、いったいどこからが現実でどこまでが幻覚なのかがわからなくなる。映画もバッド・トリップを決めているような感覚だったが、小説の方は想像力に直截訴えかけてくる分、そのぶっ飛び方は入り込めば入り込むだけ脳が刺激される。

 主人公が150年のコールドスリープを経て薬物主義社会の時代に来てからは、また雰囲気が変わって、すべての感情や行動を薬物によって自主的に選択し、また知らない間に左右されているというユートピア(或いはディストピア)の様相を呈してくる。この辺りは今冬のアニメ映画化が予定されている伊藤計劃 「ハーモニー」とも調和するかもしれない。ただ、同じような万人の健康と幸福のための医療社会と言っても、「泰平ヨン」の場合は実態として明らかに不健康なオーバードーズ社会なのだが……。

 この変わり果てた社会を主人公と一緒に探検していく中でいちいち面白いのが、シャレの利いた(というか効果そのままの)薬品名や、社会の一部となっているロボットの名称。

 快楽剤、多幸剤、感情移入剤、共感剤、憤怒剤、加虐性歓喜剤、ココロガワリン、オチツカセルニンなど感情をコントロールするものから、キリストジン、メソジスチン、イスラミンなど各宗教の特効薬。信仰布教薬としての慈悲散、良心膏、罪過錠、免罪丸。聖餐カリを飲めばたちまち聖者になれる。ダンテジンを飲むとダンテが「神曲」を書いた時の気持ちがわかり、リリズミン、ポエマジン、ソネタールは詩の代用薬。ダブリンは自分の意識を二倍にして、友人がいなくても議論ができる。

 人々が薬に溺れている中、労働を担っているのはロボットたちだが、単に働いているロボットだけではなく、ヤクザボットという野良ロボットや旅から旅を続けるタビガラスプター、自分で暴動を起こして自分で鎮圧するマッチポンプコン(これ大好き)。インランメコン、メカケン、ヨバイボットなどの使役ロボットもいる。

 また書物などもすべて食べることで摂取するようになっており、主人公は新しい物事を知るために頭を痛めながら百科事典を飲み下す。子どもたちは正字法ソーダ水を飲んで読み書きを覚え、会議の内容は会議飴として舐められる固形物となる。とにかくすべてが薬物によって成立している社会。しかし、そこにはもちろん矛盾や、二重三重の幻覚が働いており、真実の世界は覆い隠されている。

 

 映画がダメだった人も好みだった人も、小説はまた別に楽しめるのではないかと思います。もちろん映画の前に読んでおくのも一手。話が違うとはいえ、理解の助けになることは間違いありません。

 と、半分くらい小説の紹介になってしまいましたが、「コングレス未来学会議」奇異な映像体験として、映画館というスクリーン、暗がり、密閉空間で観るのがオススメです。

 

泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)  

室生犀星原作を石井岳龍が映画化 主演に二階堂ふみ

 金沢の生んだ大正・昭和期の文人、室生犀星(1889-1962)晩年の小説「蜜のあわれ」(1959・新潮社)が、「地獄でなぜ悪い」「私の男」の二階堂ふみ主演、「狂い咲きサンダーロード」「ソレダケ that's it」の石井岳龍監督によって映画化、2016年公開されるらしい。

 公式サイトには今のところ監督の石井岳龍、主演の二階堂ふみ、大杉連らのコメントが載っているようです。

 ⇒映画『蜜のあわれ』公式サイト

 

 普段、映画ニュースを流し見ていると、知っているだけではなく、「おっ」と反応する名前があって、それがこのニュースでは「おっ……おおっ!?……おおおー!!!???」とトリプル役満で来ました。

 室生犀星という名前に反応したといっても、著作は詩集しか読んでおらず、「蜜のあはれ」という小説のタイトルも恥ずかしながら初めて聞きました。あとは金沢へ行く機会があった時、四校記念館の隣の石川近代文学館を訪れたくらいか。近年著作権が切れたものの、青空文庫にはまだ当該作品は公開されていない(作業中の)ようです。

 二階堂ふみは「地獄でなぜ悪い」のアクションに魅せられた後、「ほとりの朔子」での自然体な演技にノックアウトされました。日本に限らず若い女優の顔は覚えられない(覚えたところですぐ変わる)ので、普段から注目することもないのですが、彼女は吉高由里子と並んで「おっ」となる女優ツートップです。

 そして石井岳龍。この前「ソレダケ that'it」が公開されたばかりで、もう次の作品の制作が始まっているとは、名義変更以来ますます活動が本格化してきたようです。そろそろ「狂い咲きサンダーロード」の人という認識を改めなければ。「逆噴射家族」や「生きてるものはいないのか」なども見たいと思います。

 しかし、ラインナップだけで三倍役満というのは言い過ぎか。七対子混老頭、ドラ2くらいにしておこう。

例)九九11①①發發中中白白9 9

 難易度と見栄えのわりにドラが無かったら6400の手なんですけどね。一度やったことあるんですけど、まあ、国士崩れから上がれるとしたら万々歳でしょう。しかし、牌の巡りが良ければ、三倍役満の可能性もあるので(あるので?)……映画も期待しています!!!!!

 

(なんで俺麻雀に喩えてんだ???)

 

蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ (講談社文芸文庫)

  蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ (講談社文芸文庫)

 

次世代型「女の子」映画3本立て

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いまを生きる女の子と不可視な男たち

 今年の四月某日に元町映画館で「ワンダフルワールドエンド」「世界の終わりのいずこねこ」「おんなのこきらい」の上映&トークライブ3本立てを見る機会があった。この3作品については役者やスタッフが一部かぶっていたり、特定のアーティストによる音楽ありきで制作されたりするなど共通点があり、配給元が同じ(SPOTTED PRODUCTIONS)ということもあって同時期の公開となったのだろう。全国のミニシアターでも似たような光景が見られたのではないかと思う。

 若手監督と新進女優とサブカル系アーティストのコラボによって制作されたこれらの映画は、ネット社会を中心とした赤裸々な現代を内包しつつ、女の子が女の子として生きることの宿命を描いた、間違いなくこれからの時代を牽引していくと思われる“キラキラ”した作品群だった。

 その監督×主演×音楽(脚本)の組み合わせは次の通り。

  • ワンダフルワールドエンド 松井大悟(監督)×橋本愛×蒼波純(W主演)×大森靖子(音楽)
  • 世界の終わりのいずこねこ 竹内道宏(監督)×茉里(いずこねこ(主演・歌)×西島大介(脚本)
  • おんなのこきらい     加藤綾佳(監督)×森川葵(主演)×ふぇのたす(音楽)

 男女を色分けするのってなんか奇妙な感覚だなと思いながらも色分けしてみました。ふぇのたすはボーカルこそ女性ですが、女1男2のグループなので一応そういう配分に。「ふぇ」が女部分なのは間違いないと思います。 

 ちなみに元町映画館ではこの3作品に「FORMA」「この世で俺/僕だけ」「あの娘、早くババアになればいいのに」を加えて、『Japan New Wave vol.2』という若手監督特集が組まれていました。作り手にとっても見る側にとっても貴重な機会に恵まれる素晴らしい企画です。

 また、「FORMA」についてはえげつない映画だったので、後日改めて紹介したいと思います。

 

「かわいい」の代償と止揚――「おんなのこきらい」

「かわいい。かわいい。かわいい。女の子はそれだけで

 生きていけるのです。生きる価値があるのです。」

 高らかに言いきる予告。そこから受ける極端なイメージ通り、「かわいい」を武器にして世の女性からの反感を一手に引き受けるぶりっ子OLキリコの一点突破で突き抜けた、ある意味イニシエーションの物語。

 同時期に巷をにぎわせたアカデミー賞作品「セッション」のJ・K・シモンズが悪鬼だったなら、こちらの森川葵は小悪魔。異性の下心につけ入り、食い散らかし、同性に対しては毒を吐き出す。「わたし、かわいいんで」と微笑む姿、確かにかわいいけど、ちょっと不気味でもある。

 かなりデフォルメされた人物造形ではあるけど、部分部分で(あ~、こういう子いるな~)と思い当たる節があり、そこは女性監督ならではの観察眼が発揮されている。というか監督の憎しみが伝わってくるようだった。
 キリコの周囲には男が二人。肉体関係を持ちながら関係性を濁すバーのマスター(谷啓吾)と、キリコの本性を知りながらも受け入れる取引先の職人(木口健太)。いつどこで平凡なラブストーリーに転んでもおかしくないような雰囲気はあるが、そこはグッとこらえて、あくまでも「かわいい」という言葉とその権化たるキリコについての話に仕上がっている。

 監督がトークライブで「悪い奴しか出てこない」と言っていたように、「アウトレイジ」ばりの悪人というわけではないが、登場人物のどいつもこいつも表面的には良い人ぶりながら、実のところ自分勝手で、人を傷つけるような身の振り方ばかりしている。もちろんその最たる人間が主人公のキリコなのだが……。

 正直、始めから単純に(かわいい……)性格の悪さも(それもまたいい……)とか思って、むしろそこに魅力を感じていた身としては、その自信が崩れたり、プライドがずたずたにされた日にゃ、よりいっそう味方してあげたくなるもので。

 だいたい「性格なんてものは僕の頭で勝手に作り上げりゃいい」(斎藤和義「君の顔が好きだ」)んですよ! まあ、この映画の主題はふぇのたすの「かわいいだけじゃダメみたい」なんだけど。

 劇中でキリコのたどるイニシエーション。あのラストから予感されるのは正の方向への展望ではあるけど、ようやく出発地点に立っただけのような気もする。マイナスからプラスへではなく、マイナスからゼロへ+さらに上昇の兆し。

「かわいい」の欺瞞を暴きながらも、最終的に「かわいい」をさらに上の次元に押し上げてしまう。完璧なるアウフヘーベン。そこにはもはや「君、かわいいね」と声をかける男の姿など映す必要は無い。

 

さよなら、男ども。――「ワンダフルワールドエンド」

 キャッチコピーが物語りすぎているので、見出しにもそのまま使ってしまった。

 橋本愛が化粧配信するツイキャスから始まり、場末のモデルの撮影会、謎の家出少女蒼波純の錯綜など、何かに憧れ、近づこうとする女の子の姿を赤裸々に映し出す。

 始めこそ橋本愛の彼氏の部屋に転がり込んできた少女による真意の掴めない行動が、どこか倒錯したサスペンスを思わせるのだが、中盤の追いかけっこから一変。ある種のクライマックスを迎えた上で、一旦現実に立ち戻り、そこから世にも奇妙なラストまでワンダフルな世界に没入していく。

 ツイキャスやブログを駆使してウェブという茫漠としたフィールドに臆面もなく自分の情報を発信するかたわら、私生活では恋人や家族といった身近にいる人たちとちゃんと話せず、そりも合わない。そんな世界から企てられる逃亡。「ワールドエンド」ってタイトルで勝手に世界終わらしてるけど、2人が勝手に周囲の世界を閉じて、新しい世界に行っちゃっただけなような気もする。

 キャスに身勝手なコメントばかり寄せてくるリスナー、汚れ仕事ばかり提案してくる事務所の所長、そして大森靖子「悪意の無いイケメンをボコボコにしたい」という歪んだ提案から生まれた彼氏など、彼女らを取り巻く男たちは2人の蜜月の前にあらゆる形で切除されていく。

 すでに若手トップの橋本愛とのW主演となった女優デビューの蒼波純は、棒というより素の雰囲気が役にハマり込んでいて、その存在だけで何らかのイデアを体現しており、その不思議な魅力にむしろ橋本愛が食われかけていた。トークイベントでも声が小さくて、しゃべるたびに客席が保護者席と化していました。絵を描くのが好きで、劇中の絵も全部自分で描いたそうです。最後はみんなでじゃんけんしました。ファンシーすぎる……。

 ファンシーといえば劇中唐突に現れる着ぐるみのウサギ。これ抑圧された状況下でウサ耳のスマホカバーが媒体になって生み出されたのかなあと思ったら、たまたま手元にあったから使っただけで特に深い意味は無いらしいです。ベルリン映画祭で少年に「何かの象徴ですか?」と質問されたけど、監督は期待に沿うようなことを言えなかったとか。

 というようなエピソードもあるように、正直あまり深くは作り込まれていないのだが、デニス・ホッパーの「イージーライダー」の如く、その時代というものにピッタリと寄り添いながら、可否を問うまでもなく駆け抜けていく、作り込みよりも勢いを大切にした作品だと思った。そして、彼女たちを花園へ追いやるのは、他でもない俺たち男どもなのだ。

「おんなのこきらい」での「かわいい」は男あって成立した言葉だった。一方でこの映画の「かわいい」は女の子同士、それも馴れ合いの常套句ではなく、二人だけの世界を作り上げてしまうほど強固なものとして機能している。男どもはそれをぶち壊しにいかないといけないのだが、ほんとうにどうしたものか。

 

世界を救うアイドルの資質――「世界の終わりのいずこねこ

 2035年、アイドルがいなくなった世界を舞台にいずこねこという謎の存在が歌って踊って世界を救うSF。あらすじを読むとふつうに東京がなくなっているので、いなくなったのはアイドルどころではないと思うのだが、具体的なことはわからず、その世界観は謎に包まれている。一応、西島大介先生が授業で教えてくれはするのだが、なかなか実感として伝わってこない。低予算でもそれなりの見せ方はあると思うのだが、そこは表現技法の狭さが露骨に表れてしまっているような気がした。

 ただ特筆すべきは「ワンダフルワールドエンド」に続いてデビュー2作目となる蒼波純の持っている不思議な透明感。誰もいない商店街、うら寂しい廃墟に彼女が「反対」という何に反対しているのかさっぱりわからないプラカードを持って立っているだけで、一つの世界観を構築できてしまっている。恐るべき21世紀生まれ。

 元々、主演の茉里扮するいずこねこというのはコンセプトアイドルらしく、その設定を押し広げたのが今作であるらしい。彼女は「ニコ生」のような生放送で、父親の作った曲を歌って踊る配信をしている。劇中で表示される膨大なコメントはすべて監督自身が打ったらしく、ネットカルチャーに携わっているだけあって、その再現度は高い。そして、この生放送から彼女がアイドルに近しい存在となり、リスナーが姿の見えないファンとなって、世界を救うという最終目標に向かって熱狂を生み出していく過程に、次世代の文化の在り方が見出される。

 目下アイドルは商業主義の中に組み込まれ、がんばっている女の子を応援したいという気持ちは、売上や動員といった形で事務的に集計されていく。アイドルというのは男たちが男たちに仕掛けた偶像であり、与えられた仕事である。しかし、女の子自身も目標に向かって努力し、理想を追いかけ続けている。その中でも世界を救う資質のある者は、操り人形の糸が切れても、踊り続けるだろう。

 この映画自体がアイドル映画であり、いずこねこは大人の男たちによって仕掛けられた。「おんなのこきらい」「ワンダフルワールドエンド」と来て、本作はもっとも虚飾にまみれた女の子を描いている。男性性が強いと言ってもいい。しかし、虚飾というのはあくまでも周囲の状況であって、その渦中にいる女の子自身は本当にまっすぐ、それこそ無知のまま中心に立っている。そんな存在が、いや、そんな存在だからこそ世界を救ってしまう、という転換はセカイ系ならではか。

 竹内道宏監督はエヴァ世代。この映画もセカイ系系譜として作られたと考えていいだろう。 しかし、そこにあるのは「キミ」と「ボク」の世界ではない。広漠なネットの中から一掴みの希望として生まれたアイドルである「キミ」と、そこに「接続」しているすべての不可視な人間たちによる世界なのだ。

 

まとめ

  こうして三作を順に追ってみると、一口に今を生きる女の子を描くといっても、三者三様のアプローチの仕方があり、なおかつ作風自体に男女の力関係が表れていることがわかると思う。

  「おんなのこきらい」は女性監督というだけあって、女性だからこそ撮れるようなテーマと作風で固められている。冒頭の名前色分けでも、最も赤色の割合が多い作品だ。

 一方で男性像に関してはどこかぼやけていたり、同情的な側面もあり、女の子による女の子の!という感じの押しつけがましさはない。トークライブでも感じたが、加藤監督自身もなかなかサバサバした考えを持つ方で、むしろ同じ女性に対する批判意識というものも持ち合わせており、それがある意味では心強く感じたのかもしれない。

 「ワンダフルワールドエンド」については松井監督が女性のパワーに押しやられている印象を受けた。

 大森靖子の要求もあるのだろうが、被写体として女の子をかわいく撮るためには男はいらない方がいいなと、男性的な立場から自ら身を引いた結果が映像に如実に表れている。橋本愛と蒼波純によるムービーの撮りあい、ただデートしているだけの映像、そして虚構性が一気に剥がれ落ちる衝撃のラスト。「来ないで」という台詞は、踏み込んではいけないと思った領域にみずから神秘のベールをかぶせてしまったように感じられた。

 そして「世界の終わりのいずこねこ」はアイドル映画という側面を顧みずとも、その世界設定からして完全に男性主導である。

 しかし上二作の森川葵橋本愛、蒼波純ら女優と今作のアイドルと、いまどきの女の子を演じきっていることに変わりはない。この映画の枠組みでは棒読みティーチャー西島大介すらアイドルに感じられる。男性主導の虚構性など本当はとるに足らないことで、そこから浮かび上がってくる人間そのものの魅力は抑えきれないのかもしれない。

 

 ハリウッドの娯楽大作もいいですが、新世代の映画監督たちからも目が離せません。シネコンではやっていない、これからの時代を切り開いていくアグレッシブな映画たち。是非ともお近くのミニシアターまで足をお運びください。

 なんで俺映画館のスタッフみたいなこと言ってんだ。(過去4回バイト落ちました)

「ラブ&ピース」

f:id:kslvc:20150704231501j:plain©「ラブ&ピース」製作委員会

人と亀の織りなす愛の特撮コメディー

 近頃やけに制作ペースの早く、評判もまちまちな園子温監督の新作。だが今回は原作ものではなく、「地獄でなぜ悪い」に続くオリジナルと来たら期待は高まる。

 正直、あらすじも聞かず、予告も見ずに行った身としては、同じように何も知らない状態で映画館まで行って、冒頭からその超展開っぷりを楽しんでほしいのですが、雰囲気を掴んでおきたい方のために予告編も貼っておきます。もちろんすでに観に行くつもりの人は、この記事も読まないに越したことはありません。(じゃあ、これを書く意味ってなんだ?ってなるのが新作レビューの難しいところだな……)

 

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 ラブ&ピースといえば60年代、ロックと反戦の合言葉。わざわざそんな表題を掲げて描かれる物語は、田原総一朗水道橋博士宮台真司津田大介茂木健一郎という錚々たる面子の討論番組から始まり、主人公である冴えないサラリーマンがデパートの屋上で買った亀に「ピカドン」と名付けるなど、コミカルさの中に明らかな風刺を孕んでいくスタイル。始めこそ、その露骨さに少し辟易とする。

 しかし、完全に茶番と化した人間たちの行動や、風刺にもなりきらない荒唐無稽な展開にだんだんと現実感も薄れ、もう好きにしてという感じになっていく辺りで、やっぱり園監督だ、と安心するものがあった。最終的にこれがやりたかっただけだろという特撮シーンは、序盤の伏線を回収しながら謎のカタルシスを呼ぶ。

 ポスターを見て恋愛映画だと勘違いした客がポカーンとしながら見て、それでも見終わった後には「泣けた~」とか言ってる光景が目に浮かぶ。明らかにしっくり来ていなさそうな顔なんだけど。そんな光景すら映画の中に皮肉として織り込まれているのは、少し意地が悪いなと思う。

 

夢の残骸と再生工場

 ロックスターの道を歩む主人公パートとは別に、西田敏行と捨てられた玩具や動物たちによるト○ストーリー的な地下パートがあるのだが、そこではクリスマス商戦を中心とした消費社会の風刺が描かれる。

 60年代のラブ&ピース。その夢は1970年ワイト島で行われた世界最大規模のフェスティバルにおいてロックが商業主義に傾き、それに反発した暴動によって会場が破壊し尽くされ、ゴミと残骸だらけになったことで終焉を迎えた。

 一時の熱狂や流行は夢のように潰えて、後にはその残骸だけが残される。「ラブ&ピース」もそれを十分に承知の上で、その大きすぎる夢に伴う代償というものを地上パートで特撮によって再現し、また、それでももう一度やり直すんだという再生への意志を地下のパートで表明したのだろう。

 その点、園監督自身が商業主義に片足を突っ込んでいるのは、かなり皮肉なことだと思うし、日本の映画業界においてどれだけ自分の作りたい映画だけを作るのが難しいかを実感させられるのだが……。

 

 始めから「人の望みをかなえる」という茫洋とした愛ありきのストーリーだからか、最後に確かめられる愛の余りにも等身大さにぼやけてしまうところはるかもしれない。監督が作詞作曲したぬるい曲を散々聞かされた後の「スローバラード」でごまかされた部分はあるかもしれない。

 それでもアホくさい映画を見たという軽やかさと謎の感動とで、妙に心に残る作品でした。

 

 「愛し合ってるかーい!?」

※追記

「怪獣文藝の逆襲」というアンソロジー本に園子温監督が「孤独な怪獣」という短編を寄稿しています。内容は監督自身の一人称によって自主制作時代を回想したもので、俺は怪獣映画を撮りたいんだ!というようなことを叫んでいます(笑)

『ラブ&ピース』は25年前、初めて商業映画を撮ろうと思って書いた台本。

鬼才・園子温監督、「僕の集大成」と語る『ラブ&ピース』への思い! 園流の映画アプローチ方法を語る/<視線の先>インタビュー - トレンドニュース

  インタビューでも上のように語っている通り、もしかしたら短編の中で語られる脚本というのは「ラブ&ピース」のことなのかもしれません。

 

怪獣文藝の逆襲 (幽BOOKS)