地獄の映画録

「ここは地獄なのかよクソ!」が口癖の映画レビューです

ソ連映画から読み解く政治的寓意性

映画をむしばむ検閲制度――「アンドレイ・ルブリョフ」

 旧ソ連における検閲制度は、スターリンが独裁権力を持った1930年以降に厳しさを増し、そこでは新聞、書籍、雑誌といった印刷物ばかりでなく、映画、ラジオ、演劇、絵画、造形物、歌、ダンスなどあらゆる情報伝達、表現の媒体が検閲の対象となった。

 スターリン死後の雪解け時代を経て、1964年のフルシチョフ解任、ブレジネフの登場を受けて、ソ連言論統制は新たな冬の時代を迎えることになる。タルコフスキーの長編2作目「アンドレイ・ルブリョフ」が制作されたのも、ちょうどその最中だった。

アンドレイ・ルブリョフ Blu-ray

 1966年に完成した「アンドレイ・ルブリョフ」は、タタール人による侵略という屈辱的な歴史を描いたことが、映画行政当局や歴史学者から非難され、公開を先送りにされる。そこにはおそらくフルシチョフ以来の宗教弾圧の影もあっただろう。

 1969年には国内での一般公開を待たないうちにカンヌ映画祭へ出品され、国外からの大きな評価を得たのち、1972年にようやく当局の要求に従って20分ほどカットされたバージョンが一般公開に至った。監督本人によれば、このバージョンがブラッシュアップされた完全版らしく、検閲によって必ずしも作品の質は落とされなかったという。

 この件において当局との溝が決定的になったタルコフスキーは、1975年「鏡」においてスターリニズム下の印刷所で働く母親が誤植に異常なほど慌てるシーンを描くなど、検閲制度に対する不満を作品の中へ落とし込むと同時に、「惑星ソラリス」「ストーカー」などその難解な作風の中へソ連という国の閉鎖的な状況を映し出していく。

 そして「ノスタルジア」完成後の1984年、すでに規制緩和を進めていた当局をよそ目に彼はそのままイタリアへ亡命した。

 

ナンセンスの裏の寓話性――「不思議惑星キン・ザ・ザ

 1986年12月に公開されたゆるゆるSF冒険コメディ「不思議惑星キン・ザ・ザ」はソ連国内で驚異的な観客を動員、「クー」「キュー」ですべてが通じるという言葉の壁を越えたコミュニケーションもあってか、世界中でカルト的な人気を博した。

不思議惑星キン・ザ・ザ [DVD]

 前述の通り当局の検閲は緩和の一途を進み、1985年にはゴルバチョフ書記長が就任。1986年5月には映画界のペレストロイカとして、ゴスキノ(ソ連国家映画委員会)の官僚主義が徹底的に批判され、公開が差し止められていた映画の解禁、タルコフスキーなど反国家的とされた映画人たちの復権が始まっていた。

 「不思議惑星キン・ザ・ザ」において主人公たちは砂漠の惑星に飛ばされてしまう。その惑星の文明は支配者階級と被支配者階級に分かれ、マッチ棒が貴重なエネルギー兼通貨として経済が回っており、「クー」「キュー」という会話だけで通じ合ってしまうディストピア

 搾取する側と搾取される側に分かれた階級闘争。物質主義とは名ばかりの原始的資本主義経済。言葉はシンプルに削ぎ落とされ、複雑な表現を必要としない。これがソ連社会への皮肉や寓意的描写でなくて何であろう。

 しかし、そんなことを考える気にならないほどお気楽な作りが当局を惑わせたのか。この映画が人口に膾炙したということ自体が、当時の国家体制の変容を物語っている。そして観客たちに至っては、ペレストロイカの時代における期待と戸惑い、その隙間にするすると入り込んでくる作品だったのかもしれない。

 

崩壊間近のおさらい的悪ふざけ――「ゼロシティ」

 そして1991年12月のソ連崩壊――に先立つ4月、どさくさに紛れるように公開されたのが、前述の二作からは少し知名度は落ちるが「ゼロシティ」である。

ゼロ・シティ HDマスターDVD

 モスクワから仕事で街に来た主人公は、なぜか全裸の秘書に通され、レストランで自分の顔のケーキを出され、さっさと帰りたいのに不条理な出来事の連続で、挙句の果てに知らない子どもに「お前は死ぬまでこの町から出られない」と予言されてしまう。自分の意志では何もままならず、ただ悲哀を漂わせながら混沌の渦に呑みこまれていく。

f:id:kslvc:20150628005040p:plain

 ペレストロイカによる混乱の時代。素っ裸なのにそれを気にも留めないこと。複製された自分(中身はケーキ)をふたたび自分の中に取り込むこと。突然父親と教えられた人物と、その死に息子としての行動を迫られること。これらはいずれも政治的指導のメタファーなのだろう。

 初めてロックを踊ったとする父親が民主主義の嚆矢ならば、それを咎めた検事はスターリニズムの残滓。蝋人形館での神話から現代までの歴史案内はおさらいとして、最終的にそれまでの人物が思想や人種の分け隔てなく、一室に集まってくる。

 そして立場が違ってもみんな同じ歌を歌いだし、弾圧されてきた信仰の復活を見届ける。しかし、現実がそんなにうまくいくわけがない。この映画は最後までペレストロイカの矛盾と理想を皮肉っているのだ。

 居心地が悪そうに逃げ出し、湖へと船を漕ぎだす主人公。その先に何があるのかは、霧に包まれて見えやしない。

 

混沌は混沌のままに――「フルスタリョフ、車を!」

 1998年、スターリン時代の終焉を描いたアレクセイ・ゲルマンの「フルスタリョフ、車を!」が公開され、ソ連という国が無くなった後も、その混沌は混沌のままに回想された。

フルスタリョフ、車を! [DVD]

 長回しのカメラの中に入れ代わり立ち代わり現れては消える人影と脈絡もなく飛び交わされる台詞の数々。語り手(監督)の思い出としての冬、ソ連、子供時代があれもこれもと一瞬に凝縮された密度に圧倒される。

 誰が誰かもわからないまま個々人が好き勝手にふるまう家も家なら、誰もが要領を得ないまま忙しなく動き回り、奇怪なもので溢れかえる病院も病院。ここはサーカスか?はたまた動物園か?

 それでもたまにハッとさせられるのは、インク漏れのペンであったり、逃がされた鳥であったり、ふとした拍子に生活を疎む会話。それらはどれもが当時の人々が陥った状況であり、取らざるを得なかった行動であり、口にしたであろう台詞なのだ。

 また、監督自身が「わかったという人は教えてくれ」と冗談めかすように、読み解くことが不可能なイメージそのものを見る者に体験させる意図もあるのだろう。

 ロシアという国は歴史上タタール人の侵略に遭い、キリスト教も独自色を持ち、マルクス・レーニン主義によって支配され、政治も宗教も民族も文化も全部ごちゃごちゃだけど、それらすべてを広大な土地の上で育んできた。

 タルコフスキーが回復しようとした自然の下の秩序。アレクセイ・ゲルマンが再現した人為の下の混沌。そのどちらもがロシア的なものであり、理屈で読み解けないものなのかもしれない。それももう、笑い飛ばすしかないほどに。