地獄の映画録

「ここは地獄なのかよクソ!」が口癖の映画レビューです

「神々のたそがれ」

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遺作にして大作、そして怪作

 アレクセイ・ゲルマン(1938-2013)はロシアの映画監督。生涯に残した作品は「道中の点検」(1971)、「戦争のない20日間」(1976)、「わが友イワン・ラプシン」(1984)、「フルスタリョフ、車を」(1998)、そして遺作となった「神々のたそがれ」(2014)と決して多くはない。特にソ連時代の作品については当局の検閲によって上映禁止に処されるなど、ペレストロイカの時代まで日の目を見ることは無かった。それでもこの監督が二十世紀最後の怪物的な存在感を放つのは、祖国での自由を得た後に時間をかけて撮られた最後の2作品、その濃密な映像体験からほとばしるエネルギーに照射された人間が、得体の知れない何物かを感じずにはいられなかったからだろう。

 ソ連時代の検閲、「フルスタリョフ、車を!」に関してはすでに過去記事で取り上げているので、そちらをご参照ください。

 また、ペレストロイカ以降のロシア映画界や監督の置かれていた状況に関しては、こちらのインタビュー記事が参考になりました。

アレクセイ・ゲルマンインタヴュー『もう、うんざりだ』(インタビュー翻訳記事) | CHEMODAN

 1986年ペレストロイカによって名誉を回復され、その象徴として再評価されたアレクセイ・ゲルマン監督。しかし、ソ連の崩壊後、落ち着いて辺りを見渡してみると、ロシアの映画界もまた体制の瓦解によって腐りかけていた。

「今の世代は、わたしにとっては映画界からこぼれ落ちてしまったも同然です。自分自身のことばで語る人は大勢います。が、基本的にそれは映画的な方法で、ではないのです。」

 

「わたしは誠実に働いてきました。ですが、今となっては苦役に向かうかのように仕事に向かいます。いまの映画界というものに、わたしはうんざりしてしまったのです。」

 このような心境の下で撮られた「フルスタリョフ、車を!」は、スターリン時代の終焉に立たされた主人公の数奇な運命と、ペレストロイカ以降の映画界に立たされた監督自身の境遇とを重ね合わせるものではなかっただろうか。

 そして、「神々のたそがれ」において、主人公が何度となく口にする「うんざりだ」「気が滅入る」「神様はつらい(原題)」は、インタビューにおける監督の言葉と一致する。つまり映画という世界の創造主(神様)である監督自身の嘆きに他ならないのだ。

 正直、図らずも遺作となってしまったことから(年齢的に本人も最後の作品のつもりで取り組んだかもしれないが)、必要以上に祀り上げられている感は否めないが、この作品から浴びせられるエネルギーを打ち消すことが如何に困難であるかは、実際に3時間の濃密な映像体験を経ればわかってもらえることだと思う。

 俺はここまでクソまみれな映画を見たことがない。

 

あらすじ

 地球より800年ほど文明が遅れている惑星に、科学者や歴史家ら30人の調査団が派遣された。しかし、ルネッサンス初期を思わせた惑星では、地球人の期待とは裏腹に、知識人狩りが行われ、繰り返される虐殺によって一向に活路は見出されずにいた。そんな中、地球人の一人であるドン・ルマータは王国の貴族として、また飾り立てられた神の子として、状況を静観し、自らの手を下すことは禁じられていたのだが……。

 

こんな星はもう滅ぼすしかない!

 わかりやすいSF的シチュエーションから漠然とした話展開はタルコフスキーの「ストーカー」、また略奪、虐殺の光景は15世紀のロシアを描いた「アンドレイ・ルブリョフ」が想起される。それもそのはず、プロローグでは800年前をルネッサンス初期とは言っているものの、ロシア史における800年前とはちょうどタタールのくびきの時代である。民族の分断、文化や伝統の破壊。この惑星で起こっていることは、800年前の地球で実際に起こっていたことと何ら変わりはない。

 そして、惨劇は繰り返される。一つの集団が淘汰されても、また一つの集団がそれに成り代わるように。白が灰に、灰が黒に。人類のたどってきたシンプルな連鎖。「奴隷のいない地を誰が喜ぶのか」地球でさえつい200年前まで奴隷貿易が行われていたのだ。この惑星で地球人は神とされてはいるものの、その知恵をもって変革を起こそうというのは余りにも視野が短期的であり、命に限りある者の悲哀と辛労は色濃い。「神様はつらい」そりゃ人間にはつらかろう。

  大筋はわかりやすい話なのだが、見ている間は本当に苦労する。脈絡もない発言や行動、いつの間にか主観の切り替わるカメラワーク、記録映像(或いはホームパーティー)のような長回し。手法としては「フルスタリョフ、車を!」を発展させた形になっており、舞台が異世界になっている分、その混沌はさらに極まっている。理解の不可能性から生み出される異化効果によって、SFとしてもサイエンスというより、スペキュレイティブな様相を呈している。

 そして、映画に匂いが無くてよかったと思えるほど、とにかく汚い。地面はつねに泥まじりの雪やぬかるみ、屋内には藁が跳ね、羽が飛び、鳥や獣、腸詰が干され、小道具はそこらへんで拾ってきたようなガラクタばかり。演じている役者は気が触れたのではないかと思うほど、地獄のような不衛生さ。この世界設計だけでご飯1杯も食べられなくなる。(『ご飯3杯はいける』の亜種)

 ビジュアル的な雰囲気としては漫画版「風の谷のナウシカ」に近いものがあるかもしれない。が、虫はそんなに出てこないので、虫嫌いな人は安心してください。出てくるのは泥水とか臓物とかです。

 主人公の秘めたる力といった中二病的なファンタジー要素もあり、この日常からかけ離れた世界を味わうだけでも見る価値はある。が、本当に日常からかけ離れているのだろうか? 別世界のようでいて、地球と同じ歴史を繰り返し、思い通りに事が運ばず、行き詰まって、息詰まって、もうお前らいい加減にしろよ、全部ぶっ壊してやる!となる主人公に、現代でも同じような生きづらさを感じ、共感しないだろうか。

 スクラップ&スクラップ!すべてをぶち壊すことだ!

 スクリーンを通してこの世界に身を置いた時、なぜか外山恒一政見放送が思い出されたのは、私だけだろうか。私だけだろうが。