地獄の映画録

「ここは地獄なのかよクソ!」が口癖の映画レビューです

次世代型「女の子」映画3本立て

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いまを生きる女の子と不可視な男たち

 今年の四月某日に元町映画館で「ワンダフルワールドエンド」「世界の終わりのいずこねこ」「おんなのこきらい」の上映&トークライブ3本立てを見る機会があった。この3作品については役者やスタッフが一部かぶっていたり、特定のアーティストによる音楽ありきで制作されたりするなど共通点があり、配給元が同じ(SPOTTED PRODUCTIONS)ということもあって同時期の公開となったのだろう。全国のミニシアターでも似たような光景が見られたのではないかと思う。

 若手監督と新進女優とサブカル系アーティストのコラボによって制作されたこれらの映画は、ネット社会を中心とした赤裸々な現代を内包しつつ、女の子が女の子として生きることの宿命を描いた、間違いなくこれからの時代を牽引していくと思われる“キラキラ”した作品群だった。

 その監督×主演×音楽(脚本)の組み合わせは次の通り。

  • ワンダフルワールドエンド 松井大悟(監督)×橋本愛×蒼波純(W主演)×大森靖子(音楽)
  • 世界の終わりのいずこねこ 竹内道宏(監督)×茉里(いずこねこ(主演・歌)×西島大介(脚本)
  • おんなのこきらい     加藤綾佳(監督)×森川葵(主演)×ふぇのたす(音楽)

 男女を色分けするのってなんか奇妙な感覚だなと思いながらも色分けしてみました。ふぇのたすはボーカルこそ女性ですが、女1男2のグループなので一応そういう配分に。「ふぇ」が女部分なのは間違いないと思います。 

 ちなみに元町映画館ではこの3作品に「FORMA」「この世で俺/僕だけ」「あの娘、早くババアになればいいのに」を加えて、『Japan New Wave vol.2』という若手監督特集が組まれていました。作り手にとっても見る側にとっても貴重な機会に恵まれる素晴らしい企画です。

 また、「FORMA」についてはえげつない映画だったので、後日改めて紹介したいと思います。

 

「かわいい」の代償と止揚――「おんなのこきらい」

「かわいい。かわいい。かわいい。女の子はそれだけで

 生きていけるのです。生きる価値があるのです。」

 高らかに言いきる予告。そこから受ける極端なイメージ通り、「かわいい」を武器にして世の女性からの反感を一手に引き受けるぶりっ子OLキリコの一点突破で突き抜けた、ある意味イニシエーションの物語。

 同時期に巷をにぎわせたアカデミー賞作品「セッション」のJ・K・シモンズが悪鬼だったなら、こちらの森川葵は小悪魔。異性の下心につけ入り、食い散らかし、同性に対しては毒を吐き出す。「わたし、かわいいんで」と微笑む姿、確かにかわいいけど、ちょっと不気味でもある。

 かなりデフォルメされた人物造形ではあるけど、部分部分で(あ~、こういう子いるな~)と思い当たる節があり、そこは女性監督ならではの観察眼が発揮されている。というか監督の憎しみが伝わってくるようだった。
 キリコの周囲には男が二人。肉体関係を持ちながら関係性を濁すバーのマスター(谷啓吾)と、キリコの本性を知りながらも受け入れる取引先の職人(木口健太)。いつどこで平凡なラブストーリーに転んでもおかしくないような雰囲気はあるが、そこはグッとこらえて、あくまでも「かわいい」という言葉とその権化たるキリコについての話に仕上がっている。

 監督がトークライブで「悪い奴しか出てこない」と言っていたように、「アウトレイジ」ばりの悪人というわけではないが、登場人物のどいつもこいつも表面的には良い人ぶりながら、実のところ自分勝手で、人を傷つけるような身の振り方ばかりしている。もちろんその最たる人間が主人公のキリコなのだが……。

 正直、始めから単純に(かわいい……)性格の悪さも(それもまたいい……)とか思って、むしろそこに魅力を感じていた身としては、その自信が崩れたり、プライドがずたずたにされた日にゃ、よりいっそう味方してあげたくなるもので。

 だいたい「性格なんてものは僕の頭で勝手に作り上げりゃいい」(斎藤和義「君の顔が好きだ」)んですよ! まあ、この映画の主題はふぇのたすの「かわいいだけじゃダメみたい」なんだけど。

 劇中でキリコのたどるイニシエーション。あのラストから予感されるのは正の方向への展望ではあるけど、ようやく出発地点に立っただけのような気もする。マイナスからプラスへではなく、マイナスからゼロへ+さらに上昇の兆し。

「かわいい」の欺瞞を暴きながらも、最終的に「かわいい」をさらに上の次元に押し上げてしまう。完璧なるアウフヘーベン。そこにはもはや「君、かわいいね」と声をかける男の姿など映す必要は無い。

 

さよなら、男ども。――「ワンダフルワールドエンド」

 キャッチコピーが物語りすぎているので、見出しにもそのまま使ってしまった。

 橋本愛が化粧配信するツイキャスから始まり、場末のモデルの撮影会、謎の家出少女蒼波純の錯綜など、何かに憧れ、近づこうとする女の子の姿を赤裸々に映し出す。

 始めこそ橋本愛の彼氏の部屋に転がり込んできた少女による真意の掴めない行動が、どこか倒錯したサスペンスを思わせるのだが、中盤の追いかけっこから一変。ある種のクライマックスを迎えた上で、一旦現実に立ち戻り、そこから世にも奇妙なラストまでワンダフルな世界に没入していく。

 ツイキャスやブログを駆使してウェブという茫漠としたフィールドに臆面もなく自分の情報を発信するかたわら、私生活では恋人や家族といった身近にいる人たちとちゃんと話せず、そりも合わない。そんな世界から企てられる逃亡。「ワールドエンド」ってタイトルで勝手に世界終わらしてるけど、2人が勝手に周囲の世界を閉じて、新しい世界に行っちゃっただけなような気もする。

 キャスに身勝手なコメントばかり寄せてくるリスナー、汚れ仕事ばかり提案してくる事務所の所長、そして大森靖子「悪意の無いイケメンをボコボコにしたい」という歪んだ提案から生まれた彼氏など、彼女らを取り巻く男たちは2人の蜜月の前にあらゆる形で切除されていく。

 すでに若手トップの橋本愛とのW主演となった女優デビューの蒼波純は、棒というより素の雰囲気が役にハマり込んでいて、その存在だけで何らかのイデアを体現しており、その不思議な魅力にむしろ橋本愛が食われかけていた。トークイベントでも声が小さくて、しゃべるたびに客席が保護者席と化していました。絵を描くのが好きで、劇中の絵も全部自分で描いたそうです。最後はみんなでじゃんけんしました。ファンシーすぎる……。

 ファンシーといえば劇中唐突に現れる着ぐるみのウサギ。これ抑圧された状況下でウサ耳のスマホカバーが媒体になって生み出されたのかなあと思ったら、たまたま手元にあったから使っただけで特に深い意味は無いらしいです。ベルリン映画祭で少年に「何かの象徴ですか?」と質問されたけど、監督は期待に沿うようなことを言えなかったとか。

 というようなエピソードもあるように、正直あまり深くは作り込まれていないのだが、デニス・ホッパーの「イージーライダー」の如く、その時代というものにピッタリと寄り添いながら、可否を問うまでもなく駆け抜けていく、作り込みよりも勢いを大切にした作品だと思った。そして、彼女たちを花園へ追いやるのは、他でもない俺たち男どもなのだ。

「おんなのこきらい」での「かわいい」は男あって成立した言葉だった。一方でこの映画の「かわいい」は女の子同士、それも馴れ合いの常套句ではなく、二人だけの世界を作り上げてしまうほど強固なものとして機能している。男どもはそれをぶち壊しにいかないといけないのだが、ほんとうにどうしたものか。

 

世界を救うアイドルの資質――「世界の終わりのいずこねこ

 2035年、アイドルがいなくなった世界を舞台にいずこねこという謎の存在が歌って踊って世界を救うSF。あらすじを読むとふつうに東京がなくなっているので、いなくなったのはアイドルどころではないと思うのだが、具体的なことはわからず、その世界観は謎に包まれている。一応、西島大介先生が授業で教えてくれはするのだが、なかなか実感として伝わってこない。低予算でもそれなりの見せ方はあると思うのだが、そこは表現技法の狭さが露骨に表れてしまっているような気がした。

 ただ特筆すべきは「ワンダフルワールドエンド」に続いてデビュー2作目となる蒼波純の持っている不思議な透明感。誰もいない商店街、うら寂しい廃墟に彼女が「反対」という何に反対しているのかさっぱりわからないプラカードを持って立っているだけで、一つの世界観を構築できてしまっている。恐るべき21世紀生まれ。

 元々、主演の茉里扮するいずこねこというのはコンセプトアイドルらしく、その設定を押し広げたのが今作であるらしい。彼女は「ニコ生」のような生放送で、父親の作った曲を歌って踊る配信をしている。劇中で表示される膨大なコメントはすべて監督自身が打ったらしく、ネットカルチャーに携わっているだけあって、その再現度は高い。そして、この生放送から彼女がアイドルに近しい存在となり、リスナーが姿の見えないファンとなって、世界を救うという最終目標に向かって熱狂を生み出していく過程に、次世代の文化の在り方が見出される。

 目下アイドルは商業主義の中に組み込まれ、がんばっている女の子を応援したいという気持ちは、売上や動員といった形で事務的に集計されていく。アイドルというのは男たちが男たちに仕掛けた偶像であり、与えられた仕事である。しかし、女の子自身も目標に向かって努力し、理想を追いかけ続けている。その中でも世界を救う資質のある者は、操り人形の糸が切れても、踊り続けるだろう。

 この映画自体がアイドル映画であり、いずこねこは大人の男たちによって仕掛けられた。「おんなのこきらい」「ワンダフルワールドエンド」と来て、本作はもっとも虚飾にまみれた女の子を描いている。男性性が強いと言ってもいい。しかし、虚飾というのはあくまでも周囲の状況であって、その渦中にいる女の子自身は本当にまっすぐ、それこそ無知のまま中心に立っている。そんな存在が、いや、そんな存在だからこそ世界を救ってしまう、という転換はセカイ系ならではか。

 竹内道宏監督はエヴァ世代。この映画もセカイ系系譜として作られたと考えていいだろう。 しかし、そこにあるのは「キミ」と「ボク」の世界ではない。広漠なネットの中から一掴みの希望として生まれたアイドルである「キミ」と、そこに「接続」しているすべての不可視な人間たちによる世界なのだ。

 

まとめ

  こうして三作を順に追ってみると、一口に今を生きる女の子を描くといっても、三者三様のアプローチの仕方があり、なおかつ作風自体に男女の力関係が表れていることがわかると思う。

  「おんなのこきらい」は女性監督というだけあって、女性だからこそ撮れるようなテーマと作風で固められている。冒頭の名前色分けでも、最も赤色の割合が多い作品だ。

 一方で男性像に関してはどこかぼやけていたり、同情的な側面もあり、女の子による女の子の!という感じの押しつけがましさはない。トークライブでも感じたが、加藤監督自身もなかなかサバサバした考えを持つ方で、むしろ同じ女性に対する批判意識というものも持ち合わせており、それがある意味では心強く感じたのかもしれない。

 「ワンダフルワールドエンド」については松井監督が女性のパワーに押しやられている印象を受けた。

 大森靖子の要求もあるのだろうが、被写体として女の子をかわいく撮るためには男はいらない方がいいなと、男性的な立場から自ら身を引いた結果が映像に如実に表れている。橋本愛と蒼波純によるムービーの撮りあい、ただデートしているだけの映像、そして虚構性が一気に剥がれ落ちる衝撃のラスト。「来ないで」という台詞は、踏み込んではいけないと思った領域にみずから神秘のベールをかぶせてしまったように感じられた。

 そして「世界の終わりのいずこねこ」はアイドル映画という側面を顧みずとも、その世界設定からして完全に男性主導である。

 しかし上二作の森川葵橋本愛、蒼波純ら女優と今作のアイドルと、いまどきの女の子を演じきっていることに変わりはない。この映画の枠組みでは棒読みティーチャー西島大介すらアイドルに感じられる。男性主導の虚構性など本当はとるに足らないことで、そこから浮かび上がってくる人間そのものの魅力は抑えきれないのかもしれない。

 

 ハリウッドの娯楽大作もいいですが、新世代の映画監督たちからも目が離せません。シネコンではやっていない、これからの時代を切り開いていくアグレッシブな映画たち。是非ともお近くのミニシアターまで足をお運びください。

 なんで俺映画館のスタッフみたいなこと言ってんだ。(過去4回バイト落ちました)