地獄の映画録

「ここは地獄なのかよクソ!」が口癖の映画レビューです

「コングレス未来学会議」

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現実と仮想、どちらに生きるか

 「惑星ソラリス」で知られるスタニスワフ・レムの原作「泰平ヨンの未来学会議」を「戦場でワルツを」のアリ・フォルマン監督が映画化。未来のハリウッドを舞台に実写とアニメーションを駆使して描かれるドラッグムービー。

 実在の女優ロビン・ライトがミラマウント(ミラマックス+パラマウント)という映画会社とデジタル俳優の契約を結ぶ前半の実写パートは原作にないオリジナル設定。着想はむしろコニー・ウィリスの「リメイク (ハヤカワ文庫SF)」辺りにあるかもしれない。

  彼女が契約を結んでから20年後、映画はアニメ化した現実世界としての空間に踏み込んでいく。20年後の世界の共通概念や彼女自身の心境などの説明はほとんど省かれているため、始めこそ(原作を読んでいてすら)ポカーン( ゜Д゜)となるかもしれないが、現実と幻覚の区別がつかなくなってくる辺りから、時代背景とか設定とか、そんなことどうでもよくなってくる。

 原作がぶっ飛んだ薬物主義社会を描くブラックユーモアに徹していたのと比べると、こちらはハリウッドへの皮肉や家族愛など、感情の問題はシンプルで毒気の無いものになっており、そういう意味ではとっつきやすくはなっているのかもしれない。

 LSD体験のような視覚表現はアニメならでは。そして、この世界に生きるとはどういうことなのか、謎が明かされるにつれて、物語後半、実写に戻ることの意味も際立ってくる。現実に生きるか、仮想世界で暮らすか。そのテーマは同じくレム原作の「惑星ソラリス」にも通じるものがある。ということはつまり「インセプション」やアニメとしては「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」とも重なってくるわけで。それが個人だけではなく、社会全体の問題になっているという点では「マトリックス」的でもある。

 ただ、命をとるか、愛をとるかというような、わかりやすい二者択一の物語に仕上がっているかというと、決してそこまでは易しくない。「世界がどんなに変わっても、揺るがない愛」というキャッチコピーは日本の配給会社がつけたのだと思うが、何でもかんでも「世界」だとか「愛」だとか言って客を引こうとするのは、セカチュー以来の悪しき風習だと思うし、ハリウッドを皮肉った映画が日本では日本なりの売り出し方をされていること自体を皮肉に感じてしまった。

 

泰平ヨンの未来学会議

  スタニスワフ・レムの原作「泰平ヨンの未来学会議」は、映画で言うとアニメーションパートのあたりから始まる。未来学者(というのもよくわからない存在なのだが)である主人公が会議のために訪れたホテルで薬物まじりの水道水を飲み、”慈愛”の精神に苛まれるところから始まり、軍隊が出動して”誘愛弾”が撃ち込まれ、逃げた先の地下水道では何重にも幻覚が折り重なり、いったいどこからが現実でどこまでが幻覚なのかがわからなくなる。映画もバッド・トリップを決めているような感覚だったが、小説の方は想像力に直截訴えかけてくる分、そのぶっ飛び方は入り込めば入り込むだけ脳が刺激される。

 主人公が150年のコールドスリープを経て薬物主義社会の時代に来てからは、また雰囲気が変わって、すべての感情や行動を薬物によって自主的に選択し、また知らない間に左右されているというユートピア(或いはディストピア)の様相を呈してくる。この辺りは今冬のアニメ映画化が予定されている伊藤計劃 「ハーモニー」とも調和するかもしれない。ただ、同じような万人の健康と幸福のための医療社会と言っても、「泰平ヨン」の場合は実態として明らかに不健康なオーバードーズ社会なのだが……。

 この変わり果てた社会を主人公と一緒に探検していく中でいちいち面白いのが、シャレの利いた(というか効果そのままの)薬品名や、社会の一部となっているロボットの名称。

 快楽剤、多幸剤、感情移入剤、共感剤、憤怒剤、加虐性歓喜剤、ココロガワリン、オチツカセルニンなど感情をコントロールするものから、キリストジン、メソジスチン、イスラミンなど各宗教の特効薬。信仰布教薬としての慈悲散、良心膏、罪過錠、免罪丸。聖餐カリを飲めばたちまち聖者になれる。ダンテジンを飲むとダンテが「神曲」を書いた時の気持ちがわかり、リリズミン、ポエマジン、ソネタールは詩の代用薬。ダブリンは自分の意識を二倍にして、友人がいなくても議論ができる。

 人々が薬に溺れている中、労働を担っているのはロボットたちだが、単に働いているロボットだけではなく、ヤクザボットという野良ロボットや旅から旅を続けるタビガラスプター、自分で暴動を起こして自分で鎮圧するマッチポンプコン(これ大好き)。インランメコン、メカケン、ヨバイボットなどの使役ロボットもいる。

 また書物などもすべて食べることで摂取するようになっており、主人公は新しい物事を知るために頭を痛めながら百科事典を飲み下す。子どもたちは正字法ソーダ水を飲んで読み書きを覚え、会議の内容は会議飴として舐められる固形物となる。とにかくすべてが薬物によって成立している社会。しかし、そこにはもちろん矛盾や、二重三重の幻覚が働いており、真実の世界は覆い隠されている。

 

 映画がダメだった人も好みだった人も、小説はまた別に楽しめるのではないかと思います。もちろん映画の前に読んでおくのも一手。話が違うとはいえ、理解の助けになることは間違いありません。

 と、半分くらい小説の紹介になってしまいましたが、「コングレス未来学会議」奇異な映像体験として、映画館というスクリーン、暗がり、密閉空間で観るのがオススメです。

 

泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)